レナード・バーンスタインとは何者なのか、解説します

レナード・バーンスタイン(1918~1900)。アメリカが生んだ国際的指揮者である。かの名門ハーバード大学音楽科を卒業し、カーティス音楽院を卒業。以後、作曲家・指揮者としてのキャリアを歩んだ。

私は以前、同じく指揮者であるカラヤンについての記事を書いた。その際も、バンドやオーケストラにおいて指揮者がいかに重要かを取り上げた。指揮は音楽の様相を左右する。そして、音楽全体への深い知識や理解、リーダーシップ、マネジメント能力、団員との信頼構築能力なども試される。オーケストラにおける指揮者の世界では、それができなければ、ドロップアウトを余儀なくされる。

バーンスタインも、そういった厳しい世界を勝ち抜くほど運を味方につけ、才能にも富んだ人物だった。




アメリカ初の世界的指揮者にして、作曲家

バーンスタインは、アメリカで初めて国際的に名乗りを上げた指揮者である。それまで、アメリカ人が著名なプロオーケストラで指揮を執ることはなかった。

そして彼は作曲家でもあり、数々の宗教的交響曲や映画音楽を残した。ミュージカルで著名な「ウエスト・サイド・ストーリー」や、「キャンディード」で既に彼の音楽に親しんでいる者もいるかもしれない。また、映画音楽においてはアカデミー賞音楽賞を受賞した。このようにバーンスタインは、アメリカのクラシック界の地位向上だけでなく文化的にも大きく貢献している。

ちなみにバーンスタインにはピアノの才能もあった。かつて大学時代はピアノに傾倒し、プロのピアニストとしてキャリアを歩んだ。指揮者時代、ピアノ奏者として聴衆の前で協奏曲を演奏することもあった。

バーンスタインとニューヨークフィル

36-year-old composer Leonard Bernstein, holding musical score with lighted auditorium behind him. He has written two symphonies, a song cycle, jazzy ballet Fancy Free, two Broadway shows (on the Town, Wonderful Town) and is preparing a musical of Candide. (Photo by Gordon Parks//Time Life Pictures/Getty Images)

彼が音楽院を卒業後、彼はニューヨークフィルハーモニック交響楽団の副指揮者に就くこととなった。ニューヨークフィルは、アメリカを代表する五大オーケストラのうちの一つである。

バーンスタインが名を馳せるようになったきっかけは、当時ニューヨークフィルの常任指揮者をしていたブルーノワルターが体調不良で舞台を降段したことである。このとき、偶然にもバーンスタインが指揮をすることになった。演奏会の結果は大成功であり、このときバーンスタインの名が瞬く間に全米に広まった。

それからバーンスタインは、ニューヨークフィルにて常任指揮者となる。実は、ニューヨークフィルがアメリカ人の指揮者を招き入れるのは初めてである。結論から言うと、ニューヨークフィルとバーンスタインのタッグは大成功を収める。彼は、同オーケストラの黄金時代を築いた。

ウィーンにて、客演指揮者として

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ニューヨークフィル引退後は、常任指揮者として一つの楽団に長くとどまることはなく、アメリカやヨーロッパの楽団の客演指揮者として名を馳せた。ゆえに彼は「世界一の客演指揮者」とも呼ばれた。特にヨーロッパの2大オーケストラの一つであるウィーンフィルにおいてバーンスタインは迎え入れられ、数々の名演を残し、商業的にも大成功した。以後も、晩年までバーンスタインとウィーンフィルとの親密な関係は続いたという。

このとき、小澤征爾をはじめ、欧米のプロオケで活躍した大植英次や「題名のない音楽会」でおなじみの佐渡裕など、多くの日本人の弟子を輩出した。また、日本にも9度来日しており、カラヤンとともにその人気を二分したという。




奏者と結んだ信頼関係

彼はニューヨークフィルにおいて、奏者との信頼関係構築にも大きく寄与した。奏者への気配りを行ったり、さらには奏者の個人的な相談に乗ったりするなどし、「指揮者」対「奏者」という対立構造を超えた関係を結んだ。その一方で、ニューヨークフィルの奏者には一層厳しい練習を要求したという。

また、演奏会を増加したりレコードの販売を促進することで、団員の収入を増額した。金で演奏のクオリティが左右するとは限らないが、少なくとも金銭的に団員の生活は楽になるため、演奏活動に精力的に励むための基盤作りができたことは想像に難くない。この点は、カラヤンとベルリンフィルにも言えることであろう。

理屈っぽさ、酒、タバコ

バーンスタインには朗らかなイメージが先行しがちだが、実はバーンスタインが根暗だとの指摘もある。彼が学問について語る際、理解のままならない学生を置いてけぼりにするような理屈っぽい講義であったという。その際の映像が残っているが、確かに指揮者としてのバーンスタインと雰囲気が異なり、理屈っぽい印象だ。動画は、音楽統語論についての講義をしている様子だ(個人的に、大学で英語学の統語論の演習で樹形図を何度も書いたことを思い出す)。

そして、彼は大学の頃から酒をよく飲み大量のタバコを吸っていた。一説によれば、タバコは1日5箱ほど吸っていたという。

バーンスタインは演奏会が終わると、最後まで楽屋で仲間とともに酒を飲んでいたそうだ。一方でカラヤンは、楽屋にたむろせずすぐに帰路へ向かったという話も印象深い。

豊かで、ユーモラスな指揮

Does This Guy Matter? Conductor Leonard Bernstein during rehearsal with the Cincinnati Symphony at Carnegie Hall in 1977.

カラヤンとバーンスタインは全く性格の異なる指揮者であり、同時期に活躍した指揮者としてよく比較される。マーラーは厳格で指示的な指揮者である一方、バーンスタインは感情を前面に押し出した表情豊かな指揮をする。

彼の曲目で代表的なのが、マーラーである。バーンスタインはマーラーの曲について「自分が作曲したようだ」というコメントも残している。ちなみにマーラーも、ロマン派後期の作曲家であり指揮者である。

以下の動画は、バーンスタインがハイドンの「交響曲第88番第4楽章」を顔で指揮をしたものである。ここから彼の遊び心が見て取れるが、こういったことができるのも奏者との信頼関係あってこそであろう。ちなみに、演奏している楽団はウィーンフィルである。

ユダヤ人として

バーンスタインはアメリカ人だが、ユダヤ系移民の男女の間に生まれている。特に父は敬虔なユダヤ教徒であったというが、バーンスタイン自身にもユダヤ人としてのアイデンティティが色濃く残っている。

バーンスタインが招かれた当初のニューヨークフィルは、奏者の多くがドイツから逃れてきたユダヤ人であったという。

またバーンスタインは戦下のイスラエルにも度々訪れており、パレスチナ交響楽団を率いてはコンサートを行い、喝采を浴びてきた。イスラエルにいる者の多くは、ユダヤ人である。

彼の作る交響曲が宗教的なものであったことに加え、彼が作曲した「ウエスト・サイド・ストーリー」が人種の対立をベースにしたストーリーであったことからも、彼の人種マターへの繋がりがうかがえる。

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