有能か無能かで障害者を評価してはいけないのか

以前とある講演会で精神障害を抱えた男性が、僕を含む数十名の聴衆を前に障害を持つパネラーとして意見していました。その方は、「できる・できないという尺度で自分を判断されたくない、そうして欲しくない」と漏らしていました。

多分、彼はこれまで生産的な行動ができない無為無能な自分に憤りを感じたり、無能だと判断されたり、精神障害のスティグマから偏見を持たれた経験があるのでしょう。そうして、自分と同じようにほかの障害者の尊厳を奪われたり社会から淘汰されることに、危機感を覚えているのだと思います。

そして彼は、障害者なのに〇〇ができるという評価を下すことは、評価されない障害者を淘汰することに繋がりかねないことを知っているようです。従って彼は、感動ポルノに代表されるような障害者が頑張る姿がコンテンツとして消費されることにも非常に嫌厭すると思われます。感動ポルノもまた、頑張らない障害者を差別することに繋がりかねないのです。

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では、有能・無能で障害者を持つ人を評価してはいけないのでしょうか。このことに対する僕の答えは、ノーです。

僕が思うに、自分が有能か無能かを評価されたりしたりする機会は必要です。能力の評価が必要というより、能力の有無を見極める、と言い換えたほうが正確かもしれません。

能力の見極めが求められる理由は、他者の手を借りるべき場面で借りるためであり、自身が生きながらえるためです。そして周囲から否定されたことや、精神障害に付随するスティグマにより不当に下された評価を見直すためでもあります。

先ほどの男性のように、 「できる・できない」を人の尺度で判断されるのが嫌いな人は、かつて自分が人並みの能力がないことにより、自己を否定された経験を持っているのだと推測します。そうして、「できる・できない」の評価が人間の尊厳を奪ってしまうために、評価すること自体を辞めよう、という考えに陥りがちです。

しかし、障害の有無に関わらず、自分や他人が何をどこまでできるのかを見極める能力は、支援を受ける側にも支援をする側にも不可欠です。逆に言えば、そういった情報なしに支援や教育をすることは難しいですし、自ら他者の手を借りようとしても、そのタイミングを逃すことになりかねません。

恐らく教育に携わっている方なら、評価の大切さ、という点ですぐ推測がつくと思います。個々の児童や生徒を評価し彼らの特性を把握することが、生活指導や教科指導に活きることをよく知っているはずです。

最近僕は、発達障害とキャリア支援についての本を読んだのですが、発達障害を抱えている大学生の課題の一つが生活支援だと書かれていました。彼らの多くが時間管理やタスク管理ができなかったり、衝動性により手続きや課題がおそろかになったり、といった困難を抱えているといいます。

加えて、自己を否定され続けているために、自分に何ができて何ができないかのかすら分からない学生が多いといいます。そこで大学のキャリアサポーターや学生支援課に必要なのが、発達障害を抱える学生の能力の再定義や自己評価の機会であるとも書かれていました。そういったアプローチで実際に学生を支援している大学が日本にもあるともいいます。

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障害のあるなしに関わらずできることがあればできないことがあって当たり前であり、全ての人間がこの前提に立って教育や仕事に携わるべきだ。ある類のタスクが人並みにできないからといって、その人の尊厳が否定されてはならないのは当たり前。その上で自身の能力を再定義し、さらに求められる能力は何か、必要な支援は何かを把握する。

…これらは「できる・できない」の議論を展開して行く上で、僕が身に染みるように感じたところです。

自分の無能を悟るのはこれでもかというほど辛いものがあり、自分の無能さにぶち当たる日々に暗澹としてしまう側面は僕も否めません。しかし、僕らは「一升徳利に二升は入らぬ」を受容すべきです。つまり、できないことはできない、という事実を受け入れなければならないのだと。その時できないものがすぐにできるようになるなんて虫のいい話は存在し得ないのだと。冷ややかに、現実的に、等身大の自分を見つめていきましょう。

繰り返しになりますが、多くの人ができたことを僕らにできなくたって、他者から責められる理由なんてなくて、ただ能力の違いがそこにあるだけです。無能だと評価されがちな僕ですが、今働いている職場の上司も、決して能力で施設利用者や職員を差別しませんし、その上で得意なことや不得意なことを判断します。ときにその上司は、無能だとされがちな人々から学ぼうとします。非常に救われているなあと思いつつ、また明日から仕事に励もうと思う次第です。

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