教育学部・教員養成の学科にいて辛いこと

教育大や教育学部にいて辛いことを、だらだら書きます。

授業(教科指導)の練習はほとんどしません

教育学部の大学の講義に出ているからって、学校で授業がうまくなるわけじゃないんですよね。

なぜなら、教育系の大学もあくまで研究機関であり、学生による実践の場は少ないから。

模擬授業は大学の講義で時々行いますが、丸々1時間教鞭をもつ時間は与えられません。せいぜい半年に1〜2回、しかも1回15分〜20分程度でしょうか。

3年生からはじまる教育実習の前に講義のフィードバックをされても、教授のアドバイスが身をもって理解できないのが、苦しいですよね。

教授からの授業のアドバイスはいくつかいただきますが、あくまで学問的な観点からアドバイスをされることが多い。教材研究のしかたを知っている教授にあたれば、ラッキーです。

たしかに、教育実習での教科指導はやります。しかし、実習はじめは現場の先生の授業を見ることがほとんど。実習中の授業も多くて30回くらいやりますが、同じ授業は2度も3度も練習できません。

そんな中で授業の質を上げるのはきついですね。

教員になるためには全て、授業外の努力次第。そう言っても過言じゃないと思います。そもそも実践の日本の教員養成っていうシステムはどうなんだろう、と思うこともあります。ただ少なくとも、僕みたいな怠惰な学生は教員になれないようなシステムだなあと思います。



ヒエラルキーや差別意識

「桐島、部活やめるってよ」に代表されるほど差別・ヒエラルキーは残酷では無い印象ですが、それでもこれまでの教室で形成されたヒエラルキーの影響が大きく残っている気がします。

ヒエラルキーなあ。

モテる人はモテる人同士で集まるし、モテない人はモテない人同士で集まるという人間の摂理は、教育学部でも同じですし。

あとは、差別について。

教育学部にだって、ためらいなく差別する奴は大勢います。例えば僕の大学では、「かわいそうな人」を表す差別用語が使われています。その言葉は、大学のある地元で使われている言葉ですが、それを躊躇いなく口にする学生のいかに多いことか。

しかも、そういう差別用語を平気で口にする奴に限って器用で、教員採用試験に受かって教員として活躍してる、みたいなこともありますし。うええ。

レールから逸れていった人への冷たさ

教育学部の人であるないに関わらないかもしれませんが、この世の中、レールを外れた人に冷たいのかも、と考えるようになりました。

僕の大学の先輩は、教職に就かずに企業で就職する旨を伝えたときに、教職を目指す友人に鼻で笑われたそうです。うーん。

よくよく考えれば、教育系大学を受けるのは、学校である程度いい思い出のある人が多い。仮にそうでなくても、たいした困難もなく大学まで進めた人がほとんどを占めていますし。道を逸れていった人には、おのずと冷たくなるのは仕方ないのかなあって。かつての僕もすんなり大学に入って人を見下してたような人間だったし、気持ちはわかるのですが。

道を外れた人の気持ちを知るっていう点で、僕の留年の経験はとても大きかったんですよね。ああ、人間ってこんなにおちぶれるんだなあ、と。そこからは、道を外れた人を決して馬鹿にすることは無くなりました。本来誰もが失敗して道を外れる可能性があるのに、馬鹿にして咎めることなんてできないんですよね。

気を病んだりこれ以上勉強が続かないようなら、学校なんて行かなくていいと思うんです…

教員諦めました

教員になるならないに関わらず、普段の生活で器用に、地道にやり抜く人間が社会で成功するってことがなんとなくわかってきます。そんな悟りをひらいては、頭を抱えるエブリデイ。大学でうまくやれなかった人間が、学校で先生としてうまくできるはずがないじゃないですか。

とりわけ教員という職業で成功する人たちはいかに全能な人間かを思い知った時に、自分にはスーパーティーチャーになることはできないんだと悟って、非常に去勢されたような気分になりました。

しかも、教員の労働環境の劣悪さは先生方がtwitterで発信している通り。僕はそんなところで生きていけるほどタフじゃない。バイトで、ちょっときつく注意されたくらいで死んでるくらいですから。

…これらのことを総合して、教職に就かないほうがいいだろうっていう結論に最終的に至りました。

今では、その選択は正解かなあ、と思っています。

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