部活で得られるもの、得られないもの

こんにちは、Homerです。

暖かくなってきましたね。皆さんはいかがお過ごしですか?

以前、僕はこんなツイートをしてたんですね。このツイート、部活問題に関心のある先生方を中心に拡散して下さいました。ありがたい限りです。

僕はたしかに部活が好きで、小学校から昨年度まで吹奏楽部に所属していました。

そういえばこれまでの僕は、部活で何を得て、何を学んできたんだろう…そんなことを考えついたので、自分と部活を振り返ってみることにしました。



集団が直面する競争主義…現実

部活問題について議論されている先生方が懸念されていますが、僕の場合、自主性と協調性は部活動を通じては得られませんでした

教室でも部活でもそうなのですが、それらは無慈悲にも人間の優劣が目に見えて分かるようにできています。特にほとんどの吹奏楽部は、女子部員の占める割合が大きい為、人間関係がドロドロです。僕が所属したでも女の子が多く(僕以外全員女の子だったこともありました)、中学の部活ではいじめが起こっていましたし、高校や大学でも部員や顧問と馬が合わない人間は次々に辞めていきました。

僕も高校の頃まではかなり過激な人間だったので、音楽や部活運営を主導していた部員とはぶつかりました。その衝突ゆえ、一方的なアイデアの押し付けがいかに愚かだったか、身を以て知ったものです。その経験があってか、多様性や相対主義という概念を大切にするようになりました。

しかし、それができる人なんてほんの一握りだと思います。大学の部活ですら、人間関係に問題が起こり部活を辞める部員は、当然のように出てきました。教員養成系の学科の人間でさえ、弱い部員の淘汰に繋がるようなことを平気でする奴がいます。教師を目指す人間が、いい人とは限りません。僕はそういう人と馬が合わず、部活をやめたり無断欠席を続けた一人です。

したがってこういった経験から言わせてもらえば、このような互いの意見を認め合えない部活環境において自主性とか協調性が得られるなんて、まやかしだと思います。個人の意見が認め合えない部活では、我慢を強いられながら活動する部員や、ドロップアウトする部員が必ず出てきます。こんな最中で見られる協調性は、部員の犠牲の結果であり、偽りの団結です。

部活で得られたものは人間関係と楽器・楽曲との出会い

ツイートにも書いてありますが、今僕が繋がっている人の多くが、部活動を通じてのものです。現在僕は大学生ですが、中学や高校の部活で同じ釜の飯を食った友人や、部活を通じて交流してきた人々と、現在も連絡を取り合うことがあります。当時は過激な人間だったのにもかかわらず、彼らと今でも付き合いが続いているのは、大変恵まれていると思います。

そして何より吹奏楽部を通じて得られたものは、楽器・楽曲との出会いでしょう。吹奏楽を続けていれば、演奏することが何よりの吹奏楽部の楽しみになりますし、演奏しなくても、楽曲を聴くことに喜びを見出す事もあります。音楽を奏でる時間や聴く時間は、音楽に真摯に向かい、かつ人間関係が良好であれば、良い思い出になるものです。



部活はどうあるべきか

部活でもほかの組織でもそうですが、自主性や協調性は、多様性を尊重して個人を認めることで、ようやく生まれるものだと思います。事実、僕が部活に復帰して多様性の大切さを教わった後輩の部員たちは、とても良い人間関係を構築し、気軽にアイデアを出し合える環境で部活をしています。これは、僕が大学でやってきたことの中で唯一、誇れることです。

職員室も多様な人間から構成されれば良いなあと思っています。そのうえ、よほどのモラルを犯さない限りにおいて、個人を認め合う姿勢が見られることが望ましい。部活にいる児童生徒に、そういった心意気が伝わればなお良いですね。そういった姿勢が、教員の労働環境改善にもつながればよい。部活問題界隈の先生方のツイートを見ても、多様性を潰すタイプの先生は、どうしても存在するようです

僕は部活問題の解決を望んでいますが、顧問を好きでやっている方もいらっしゃるので、このように先生方が部活をする前提で書きました。仮に教員になれたら、吹奏楽部顧問をしてみたいという気持ちがあります。

多様性だとか、こんな理想論ですべてが解決するとは思っていませんが…あくまで、願望です。もっと言えば、多様性を尊重できない人間への配慮による相対主義のジレンマを超えて、個々の人間の理解につなげていきたいそう思います。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする